カスタマーレビュー
岡倉天心はすごいですね。 茶の本 (岩波文庫)
利休のわびさび的な表現が美しい。もともと放送大学で英文講義をたまたま聞いたときにその一文が気になって購入したもの。武士道のような確固とした信念は感じられないものの、外国ぎらいを全面に押し出している感じは面白いです。
独特の感受性の結び目の一つ 茶の本 (岩波文庫)
「武士道」、「代表的日本人」ときて、この文庫に手が伸びた。本文は90ページ弱だが、内容は深い。
巻頭のはしがき等が、この書物の辿った紆余曲折を教えてくれる。英語版は1906年に発行されたものの、日本語版が出されたのは1929年、その後も改訳がなされ、題名の訳についても逡巡したことが述べられていて、そんな風にしてもいまだに出版されている様子自体に歴史を感じる。
全体を全七章で構成し、序論、茶の歴史の沿革、茶道の振る舞いの原理となった道教と禅についての考察、茶室・芸術観賞・花・茶道の宗匠それぞれについての随想といった内容になっている。
茶の歴史についてははじめて知ったし、道教の影響が禅に受け継がれ、そこに含まれた不立文字、曰く言い難い事を言いながら言えず・言わず、言えず・言わずながら言うといった感受性が芸術においても受け入れられ、未完の事物に運動を見、自らが内的に完成させるという心得と空間的美学を磨いてきた茶人の事跡を、著者は言外に含みを持たせて語っていく。
確かに、新渡戸稲造がものした「武士道」と不思議に対応している著作に思えてくるし、渡辺京二氏の「逝きし世の面影」で描出されている市井の人々の日々の過ごし方の一端が、ここでの身のこなし方と重なって見えてくる。
日本語で言い表され、過去の事跡から現在へと続き、多方面に広がる感受性の結び目の一つとして読める一冊。
日本人の美意識の源泉を捉えた名著 茶の本 (岩波文庫)
新渡戸稲造の『武士道』が日本人の倫理意識の源泉の一を描いたものとすれば、本書は日本人の美意識の源泉の一を描いたものと云える。その意味で、両書は相揃って「半双の二曲物屏風」を構成する近代日本が生んだ重要著作であると考える。
本書を一読して、(1)茶道が建築や庭園、工芸、陶器、生花など今日に伝わる日本文化の母胎であったこと(91〜93頁)、(2)清潔なること必ずしも美ならざること(60〜61頁)、(3)美は細部に宿ること(重複の回避につき64〜65頁、花と掛け軸や彫刻との「協奏曲」につき88〜89頁)、(4)茶道における崇高な目的は自らを芸術そのもの(芸術的人格の表現)にまで高めようとする点に存すること(91頁))などの気づきを得た。
薄いからといって簡単に読める本ではないが(特に道教などの知識が必要であることを痛感)、味読すれば得るところの多い名著だと思う。末尾で千利休の最期の姿を描いた挿話も心に残る。「今日は工業主義のために真に風流を楽しむことは世界至るところますます困難になって行く。われわれは今までよりもいっそう茶室を必要とするのではなかろうか」(66頁)。
本質的な芸術論 茶の本 (岩波文庫)
岡倉天心(覚三)の生涯の仕事の半分は、アジアの芸術に見向きもしない西洋人に対し異議を申し立て、東洋的美意識の何たるかを懇切丁寧に解説することに捧げられた。だから天心の主著である『東洋の理想』、『日本の目覚め』、そして『茶の本』はすべて英語で書かれ、欧米で出版されたのである。
そしてもう半分の仕事は、文明開化とともに芸術の心得を失ってしまった明治の日本に、真の美意識を復興することであった。ちなみに天心が設立に尽力した東京美術学校は、現在の東京藝大美術学部である。
本書は基本的に、茶道の歴史とその背後にある道教・禅の思想、茶道に欠かせない生け花(華道)の美学、そして茶室の建築哲学などについて論じたものだ。テーマははじめから限定されており、分量も少ない。しかし本書には、我々が「芸術」一般について論じる際におそらく欠くことのできない重要な論点が、高い密度で詰め込まれている。
天心は、茶道の芸術性を讃える際に、「生活」と「芸術」の一体性を強調する。天心によれば、茶道における「生活」と「芸術」の一体性は、道教と禅の思想に由来するらしい。
「茶道いっさいの理想は、人生の些事の中にでも偉大を考えるというこの禅の考えから出たものである」(p.50)。そして日常の生活の中にも、「われらに認めたい心さえあれば完全は至るところにある」(p.84)のだが、そのことに気づく者は少なく、「名人にはいつでもごちそうの用意があるが、われわれはただみずから味わう力がないために飢えている」(p.65)というわけである。
また逆に芸術そのものも、生活と密接に交わるものでなくては意味をなさない。「茶の宗匠の考えによれば芸術を真に鑑賞することは、ただ芸術から生きた力を生み出す人々にのみ可能である」(p.84)ということだ。たとえば萩原朔太郎や石川啄木など、似たようなことを言っている芸術家は多い。
これらの芸術家が言おうとしたのは、芸術作品を「芸術作品」として特別に扱い、人間の「生」の文脈から切り離してしまうことが、芸術の本質に反するのだということだ。言い換えれば、芸術(作品)というのは“客観的対象”として取り出すことのできないものであり、それが生活の中に入り込み、生活がそれの中に入り込むことによって初めて成立する営みだということである。
「われわれは傑作によって存するごとく、傑作はわれわれによって存する」(p.65)と天心は言う。芸術作品は、「存在」するために鑑賞者を必要とする。と同時に鑑賞者は、芸術を通じて開示される「世界」を自分の居場所として発見することによって、初めて真の意味で「存在」することができる(これは音楽や文学の場合を考えると分かり易い)。この、芸術と存在をめぐる循環の中に正しく入り込むことによって、真の美意識は成就されるのであり、ついには「彼(芸術愛好者)は存在すると同時に存在しない。……彼の精神は、物質の束縛を脱して、物のリズムによって動いている」(p.67)という境地に到るのである。
ところで、天心は繰り返し芸術作品の「不完全性」を讃えてもいる。たとえば、茶室の建築は「『不完全崇拝』にささげられ、故意に何かを仕上げずにおいて、想像の働きにこれを完成させる」(p.51)ところに美的な趣があるのだと言う。
先に言ったような「循環」に入り込むことが芸術鑑賞の本来的な形式であるとすれば、そもそも作品それ自体を“客観的対象”として取り出したときには、未完成であるに決まっている。鑑賞者と一体化して初めて芸術作品は作品として成就するからだ。
だから、天心が言うところの「不完全性」は、平凡な意味で“何かが欠落していること”と解釈するのではなく、作品が鑑賞者を吸い寄せる神秘的な“力”の別名だと考えたほうがいい。「何物かを表さずにおくところに、見る者はその考えを完成する機会を与えられる。かようにして大傑作は人の心を強くひきつけてついには人が実際にその作品の一部分となるように思われる。」(p.46)というわけである。
以上のような芸術の本意を文明開化後の日本人が一斉に忘却し、芸術の味わい方を見失ってしまったことを天心は嘆いている。「過去がわれらの文化の貧弱を哀れむのも道理である。未来はわが美術の貧弱を笑うであろう。われわれは人生の美しい物を破壊することによって美術を破壊している」(p.71)と。
日本人の創る作品は、「西洋」の無批判な模倣か「古典」の無反省な反復でしかなくなった。そして鑑賞者も、芸術を芸術として鑑賞する心構えを失い、「数世紀前、シナのある批評家の歎じたごとく、世人は耳によって絵画を批評する」(p.70)といった有り様になってしまったのである。
「未来はわが美術の貧弱を笑うであろう」と天心は恥じたわけだが、天心の見た「現代」は未だに続いているのかも知れない。
茶の本ではない 茶の本 (岩波文庫)
まあ、日本を代表する文化の一つとして「茶」という言葉を使ったのだろう。
日本がヨーロッパ列強に肩を並べるために、日本の文化を紹介する。
そのためのパンフレットみたいなものである。写真はないが
しかし、話が行ったり来たりでこのまま英文で訳されても、外国人には理解不能だろう。
この書き方からすると、あたかも大中華圏に影響を受けた周辺国家のような
イメージを与えかねないだろうな。
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